埋葬記

あるいはもう一つの起源の歴史
Nov 18
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Sep 22
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 ただ、「週刊現代」に掲載された犯人の弟の手記によれば、犯人の人格形成には、異常に抑圧的な母親の存在が大きい。いわく、「ドラえもん」「まんが日本昔話」以外のテレビは見せない、まったく会話のない食事風景、作文は全て母が添削、母の卒業校である名門進学校に進んだ時は喜んだが、成績が下がると無視。など、これではひねくれても不思議ではない家庭環境がつづられている。犯人いわく「母に捨てられた」。
Aug 27
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横でいいたい言葉をポソッというんですよ。たとえば、小学校二年生ぐらいだから、授業中にトイレに行きたくなっちゃったりすると「トイレ」と私にいうんですけど、私の役割としては、それを私が先生にいうんじゃなくて、彼女にいわせなければいけないという役割で、「じゃ、最初に『ト』っていってごらん」というふうにして続けていわせる。それが苦痛で。苦痛だと感じても、顔は笑うというか、私は一生懸命な顔をしていわせようとするわけじゃないですか。「別にこの子が口をきいたって私はうれしくないのにな」と小二のときに思って以来、嘘のことなんていっぱいあるんだ、と思って。
Aug 16
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しかしいざ都心に出てみるとそうは行かないものです。サブカ ルチャーのなかでも特にこれ!といったものがない私はサーク ルに所属していません。小説は好きですが、まじめに書くのは 勇気がなくてできませんし、音楽は好きですがマトモに弾ける 楽器がロクにありません。これでは居場所がありません。今で は「私が所属していたコミュニティはよかったなぁ」という記 憶ばかりが美化される毎日です。行動を起こさなくとも自分の 周りに人が集まるだろうとタカをくくっていた自分が恥ずかし い!

都内私立大学の文系キャンパスでは、一人ぼっちになることは ないのでしょうが生ぬるい横のつながりを享受しなくてはいけ ないんだ。そのことに事に気づいたのは極々最近なのですが、 最早行動を起こすには何もかもが手遅れでした。サークルとか クズですし大学生とかリア充ばっかりでゴミ以下です。そんな ゴミにすら混ざれない私はもう生きる価値がありません。もう 彼らの声すべてが嘲笑にきこえてしまいます。

ケラケラ。ゲラゲラ。ニヤニヤ。あはははあはははははあはは。

わたしは授業が終わると耳を塞ぎながら走って教室を出て、駅 まで走って一刻も早く部屋に戻ろうとする、そういう毎日を送 っています。

ずっとウェブにいれば、こんなことを感じずにいられたのに。

Aug 05
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「死にたい」ということは、つまり「現状を脱出したい」ということ。簡単に言えば、時間が自分を殺してくれる。人間の細胞なんて半年でほとんど入れ替わるしつまりそれは半年前の自分はもう死んでるということだから。自分が変わると現状も変わる。時間は意外とバカにできない。
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東京のランドスケープを一変させたバブル経済期の乱開発への批評的なまなざしはあるにせよ、僕らがいま置かれている映像論的な危機状況に対してあまりにも感度が鈍い。それを示すのが乱発される廃墟のイメージだ。廃墟のイメージこそ、いまもっとも反動的なかたちで消費され、利用される危険が高い「ノスタルジー商品」なのだ。目にみえない廃墟を映し出すことからしか、それに対抗する批評は生まれないはずなのに。
Jul 24
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Jul 10
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 『かみさまからのおくりもの』が出版されてまもなくのことです。「樋口さんは子どもが一人だし、まだ小さいからわからないだろうけれど、やさしいとか、歌が好きとか、そんなものをもらって喜んでいたって仕方がないわよ。頭がいいとか、足が速いとか、能力と言えるようなものが大事なんだから」と、もっと大きいお子さんを持ったお母さんからいわれました。
 そのとき、「私は絶対にそんなことはない」といえる自信はありませんでした。「いつか自分もそんなふうに思う日がくるのだろうか・・・・・・」とちょっと不安になったのです。
 私は、自分の本を自宅に飾るということは普通しないのですが、この絵本だけはいつも表紙がパッと見えるように、長い間置いていました。そのお母さんにいわれたことを思って、そうしたのです。
 もし私が、子どもを育てていく中で「やさしい」よりもっといいものをもらったほうがよかった、と思うようになったら、この本そのものの価値を否定することになると思ったのです。ですから、そのとき、その方にいわれたことは、私が意識的に生きるためにとてもありがたいことでした。

    ひぐちみちこ「子どもからの贈り物」
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『ぶつかること、しがみつくこと、傷つけることしか知らない〈愛〉。
ひとはなぜ、他人のなかにめり込もうとするのか。めり込もうとして、他人にごつんごつんとじぶんの身体を突き当てるのか。なぜ、引きちぎれるほどに耳を摑みたい、抜けるほどに髪を引っぱりたい、掌の血が鬱積するほどに手首を圧したい、膚に跡形が残るほどに腕を噛みたい、潰れるほどに肉を握り締めたいと願うのか。「餓鬼」の愛、をふと思う。
憎しみが、ひとのなかで気づかれぬままに突然、過去のすべてを忘れ去るかのように〈愛〉へと反転するというのは、幸なのか不幸なのか。必然なのか気まぐれなのか。
関係の飽和状態。そこに異物をちょこっと挿し入れるだけで、じりじりその瞬間を待っていた全体が突如、別なかたちで結晶化することはある。抑えうるぎりぎりのところまで気張って身を支えていたものが、建築現場で最後に足場を外す瞬間のように、みすぼらしく崩れ、落ちる。
「もう、いっぱいに、いっぱいに、なって……」
これがおそらく粗暴な力を呼び寄せるきっかけである。いっぱいになってどうしようもなくなっている。そのときの膨大な圧力を一挙にへなへなにさせる、ぺしゃんこにさせるための方法である。風船を針で突くように。』(鷲田清一『皮膚 傷つきやすさについて』)
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何のために生きるのか考えてみた。
生きていても何かのためになるとは思えない。
何か得するわけでもない。
だが、生きると決めたから、とりあえず生きている状態を保っている。
なぜ決めたのか。妹が生きてと毎日言うからだ。
じゃあ、おれは妹のために生きているのか。
どっちかというと、妹のせいで生きている。